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平成29年2月26日 日本第一党 結党大会
日本第一党 第一回党大会(結党大会)
【日時】平成29年2月26日 13:30~16:00
【場所】アパホテル潮見駅前 翠玉の間
【主催】日本第一党 (党首:桜井誠)
※登壇順※
最高顧問 瀬戸弘幸(福島)
副党首 先崎玲(福岡・九州) 長尾旭(愛知・中部) 高橋阿矢花(北海道)
幹事長 和田瑞季(兵庫)
事務局長 山桜桃花 (東京)
党首 桜井誠(日本)
日本第一党 三役人事について
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2017/02/12 伊藤貫氏(国際政治アナリスト,著述家) 「The World with President Trump」

BIG SMILE

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91覚書から四半世紀の成果・精華

2016-10-31 「土人」と差別された移設反対派の幹部が活動的な「市民」である件

【KSM】沖縄平和運動センター事務局次長は、パク・ホンギュ!沖縄サヨクリーダーの一人が韓国人!?

外国籍教員100人超す 大阪府・市教委 今年度23人採用 民団大阪の要望実る
 【大阪】大阪府・市教育委員会は06年度の公立学校教員採用選考テストに合格した23人の外国籍者を4月から採用することになった。この結果、大阪府内の公立小・中・高等学校で勤務する外国籍教員は初めて100人の大台を突破し、計105人となる。国籍(地域)別内訳を見ると韓国籍者が90%以上を占め、中国、台湾が続く。(略)

朴洪奎さん(53)=東大阪市立太平寺中学校教諭
 私は80年に教諭として採用され、管理職の制限はなかった。今回、府教委は努力してくださった。「首席および指導専任」制度で半分は戻ったというところだ。だが、まだまだ不十分。91年の「覚書」以前に戻っていない。管理職になれる受験資格を認めてほしい。

証言・1923関東大震災から


「91覚書」で朝鮮人の指紋の押捺廃止やら、公務員、公立学校教員の正規採用だのが始まるきっかけとなったが、その平成3年ころ、人権研修も企業団体で盛んに行われ始めた。その年には日本がワールドカップの招致委員会が設立され、議員連盟の長は『近隣諸国条項』で日本の歴史を売り払った宮沢喜一だった。『関東大震災では朝鮮人虐殺があった!』『当時から朝鮮人差別が続いている!』『日本人と同じ権利を与えるべきだが、現状はそうなっていない!』などとその研修では教えられました。2年後の平成5年には従軍売春婦・河野談話が出たり、日韓共催のワールドカップ話が始まったり、さらには外務省を裏切った杉原千畝美談が出版されたりしています。

その当時の研修の基本資料の中に取り上げられた、震災を経験された方の昔話を集めた本を読んで、snowdropまとめたものが下の内容です。ラジオがない当時人伝えで情報をとるのが当たり前で、津波は相模湾が震源だったので、神奈川県の湘南海岸には本当に津波が来ました。津波は流言ではありません。あとは40年くらい昔まで、鉄道の駅に忘れ物の掲示板や、待ち合わせの人に向けた掲示板がありましたが、張り紙で情報交換しました。しかし直後はそれどころではなく、逃げて生き延びるのがやっとだったようです。『流言』だとか『蜚語』だとか、今の私たちが聞くとゾッとしますが、『言づて』は震災当時の唯一の手段だったのです。(以下【】は本の内容です。)

【道は地割れするし、普通の家々は倒れ、トンネルや崖は崩れて、橋も落ちた。ラジオ放送が始まっていない時代で、情報は経験談や人づての話以外にはない。新聞も活字が組めず、発行できないし、配達も出来ない。幕末の1855年の「安政の大地震」を経験した年配者が経験を話してくれて、竹藪なら地割れはしないからと逃げ込んで、雨戸を敷いて、布団を崩れた家の中から引きだして、蚊帳をつって数日を過ごしたそうです。食べ物には苦労する方も多く、壊れた他人の家のものを食べたり、濁った川の水も浴衣の生地で漉して飲み、数日をしのいだそうです。横浜・長者町辺りでは立憲労働党党首を名乗る山口なる男は100人もを集めて物盗りをして軍に鎮圧されたそうです。横浜では滝頭付近にあった刑務所が壊滅し、一時囚人を解放した事もあった。数日後には港での救援物資の荷下ろしで活躍したそうだが、当初は混乱もあったようだ。

 9月1日は明け方は小雨が降っていたけれど、始業式が終わって家に着く頃には晴れていたが、風は吹いていたそうです。当然昼食の用意のため、釜戸に火が入っていた家もあって、その家が崩れるわけですから、火を現代のようにスイッチを捻って消せるはずもなく、火事が広がって、東京では深川やら本所被服敞やらの下町は上野の山や九段の高い方から見ると焼け野原だったそうです。太い柱が倒れて、下敷きになって抜け出せなかった所に火事が襲ったような無残な遺体もたくさんあったそうだ。横浜でも中村橋、掘割川あたりの街は焼け落ちて、無残な真っ黒く膨らんだ焼死体が川に何体も浮いていたそうです。数日後には横須賀方面の海岸にも遺体は打ち上げられたそうです。横浜の港に入っていた船の食料を横須賀の方から漁師の舟を借りて、分けて貰いに行った事もあったそうだ。】

 そんな状況ですから、生き残った自警団は検問をしたり、安全な道の案内をしたりしたのでしょう。それを朝鮮人を見つけて殺害するための検問だったような言い方は『日本人と日本社会に対するヘートスピーチ』でしょう。


【電凸】NHK_ 一日一電…富士山噴火、大津波、朝鮮人の襲撃2016/09/29 に公開
最初の流言は1日の午後1時。
富士山が大噴火している。
大津波が襲来する。
午後3時には初めて朝鮮人に関する流言が報告されます。
「社会主義者及び鮮人の放火多し」
1日の午後流言を聞いて、荒川に架かる鉄橋に避難した男性の証言が残されています。
とのナレーションに続いて、以下の島川精さん(1982年撮影)の証言が続く。

「津波だー、津波だとよー。それで津波だから少しでも高い方がいいってわけで、土手へ登って、流されちゃ困ると思うから、帯を解いて、帯を線路の下へくぐらせて結わえつけて、津波が来ても流されないようにした。いつまでたっても津波なんか来やしないんだよ。しばらく経ったら、朝鮮人が攻めて来たって聴こえて来た。それで今度はにわかに殺気立っちゃったわけだ。武器なんかありゃしませんよ。棒っ切れを持つとか竹竿とか。
いもの葉っぱが人間の顔に見えるの。だから、誰だー誰だーって突いて…」
ここで映像は途切れる。
この後に何を証言していたのだろう?